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confuoco Dalnara

Girl With a Pearl Earring

真珠の表面のカーブと
少女の瞳のカーブが同じ角度のようだった。
真珠と少女の瞳が同じくらいつよい光を放っているのがよくわかる映画だった。

映画のなかの光は
印象派の絵画のような粒子の光ではなかった。
フェルメールの絵画そのもののように
曇った窓ガラスのような、羅紗を1枚かけたようなすこしよわい光。
薄暗い陰翳と光、灰色の風景を感知できる映画だった。

「私の心も描くのか」
少女の鋭さに驚いた。
言葉の鋭さと、少女の鋭敏な感性と洞察力がこめられた言葉が心に残る。
少女は絵画を理解している、と思った。
そしてこの一言には、画家の筆力に対する敬意と
自身のゆれる心を描かれまいとする自尊心とのせめぎあいが表現されている。

あれほど少女を苦しめた真珠をなぜ少女にとどけるのか
と思ったけれど、絵は画家のもとに残り
真珠は少女に託して両者痛みわけなのかもしれない。
芸術は美はすばらしく尊いけれど、
美の実現芸術の創作のためにひとの心が引き裂かれてはたまらない。
画家の家を去った少女は賢明だった。
絵のモデルとして少女は一度は美の国に足を踏み入れ
やがて芸術の家を去って人の世界にもどっていったのだ。

オランダの運河にうつる四季、雪が降りつもり氷がはる風景と、
行き交う人々のくすんだ色合いの服装などが
フェルメールの絵画の背景の世界をよくうつしだしている。
おさえた光の映像は絵画の中の光と同じような静謐さに満ちていた。

最後に真珠の耳飾りの少女の絵を映しだす場面で
真珠をクローズアップして映していく映像が
光あふれるトンネルの出口のように見えて
希望や明るさが感じられて印象に残った。

映画を観ると、
「青いターバンの少女」という絵画の呼び名よりも
「真珠の耳飾りの少女」という題がより深いものに感じられた。

Vermeerつながりで上野の展覧会にも行く予定。
時間があればScarlettの'Lost In Translation'も見に行って
鑑賞の三角形をつくるかも...。2004年記。

映画LITの舞台となったホテルの近く。
lit_shinjuku

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